こころねのうた

ほんねで歌いたい

シラーズの少年-人権作文

平成三十年度 栃木県人権作文

応募作品  

 私の夫はイラン人です。来日して今年で二十七年目を迎えました。私が夫と出会って初めてイランという国を訪ねたのは、平成十五年でしたから、今からちょうど十五年前になります。そのとき、新婚旅行を兼ねてイラン国内の歴史的な観光地へ出かけることが叶いました。特にシラーズというイラン南西部に位置する古都には、紀元前五世紀頃に建てられたギリシャの神殿を思わせる古代の建造物があり、その雄々しさに圧倒され、言葉を失ってひたすら眺めたていたことを覚えています。

 その日の夜、私は夫と二人で宿泊先のホテル周辺を散策してみたのです。市街地ではありましたが、人通りは少なく、静かな古都の夜の散歩となりました。ホテルへ向かう帰り道だったでしょうか、ふと気が付くと小学校低学年くらいの男の子が、一人で私たちのそばに近づいてきました。特に何かを言ってくるわけではなく、恥ずかしそうにためらいながら、静かに彼は自分の右手を差し出してきたのです。私ははっとしました。「お金をください」という意味なのだと分かるまでに時間はかかりませんでしたが、今ここで、この子にお金を渡すのは果たしてよいことなのかと迷ってしまったのです。夫は以前、

「日本では子供が『お金をください』ってやらないね。見たことがない」

と言ったことがありました。そんなの当然じゃないかとその時は夫の気づきを一笑してしまいましたが、この出来事で日本の物質的な豊かさは世界的に見れば当たり前のことではないと気づかされたのです。

結局、シラーズの街であった少年には夫が

「向こうへ行きなさい」

と促し、私たちもその場から離れて宿泊先へ戻りました。けれど、差し出した右手を宙に浮かせたまま何も手にすることができなかったあの少年の寂しげな後ろ姿、たった一人で夜の街をゆく後ろ姿が忘れられませんでした。なぜ、彼が物乞いをしなければならなくなったのか、親はどうしているのか、もしもあの場でお金を渡していたらいったい何に使われたのか、様々な思いがよぎりました。

 十五年前のイランでは、テヘランのような首都の街でさえ、人通りの多い歩道に赤ちゃんを抱いた女性が座り込み、涙目で物乞いする姿が見受けられました。或いは信号待ちのために停車した車のそばへ近づいて花を売る少年の姿、視覚障害者と思われれる交通の激しい車道のすぐ脇で物乞いをしている姿も見かけました。

 イランはイスラム教徒の多い国なので、貧しい人に施しをする習慣が根づいていますし、中東のなかでは割合に裕福な国だといわれています。それでも当時、彼らの暮らしは苦しいものであったのでしょう。私がイラン滞在中に見かけたことはほんの一部に過ぎず、テヘランの下町の方ではストリートチルドレンも多いと聞きました。現在のイランがどのように変貌を遂げたのか、最後に訪ねてから既に七年程過ぎてしまい。自分の目では確かめられていません。

 私が今、親となって感じるのは、自分の子の生きる道を親の不遇によって傷つけることのないように、できる限り努力したいということです。かつて、二百年位前までは、世界中の子どもたちの運命は大人に委ねられていました。家で養える人数を超えた子供は捨てられたり、親に命を奪われたりすることも少なくありませんでした。子供は保護し、尊重する存在として認められてはいなかったのです。

 近代に入る頃、ようやくヨーロッパで子供が子供として存在を認められ、その特性が研究されるようになり、大切に育てようとする社会が発展してゆきました。

 しかし、現在の世界の子どもたちに目を向けると、シラーズで出会った少年のようにまだ守られるべき年齢の子どもが物乞いをしなければならなかったり、アフリカでは内紛の為に少年たちが誘拐され戦闘員に仕立てられたりしまうなど、子どもたちを取り巻く環境が豊かに発展したとは言い難く、子供の未来を大人が踏みにじってしまう現実があります。私は子育てをしていて、子供の未来や可能性を守る為には大人が子供の特性を学び、慈しみ、善意を教えることが大切なのだと感じています。なぜなら、戦闘員を仕立てた大人たちもかつては皆、子供だったからです。さらには私は「お母さん」にさせてもらったのだから、それに恥じない生き方をしたいと心から思うのです。私一人の力では社会の貧困や戦争をなくすことはできませんが、まずは自分の周りからより良くしたいと願ってやみません。

 シラーズの少年は、今どうしているのでしょうか。私の子どもはあの少年と同じくらいの背丈になりました。十五年前の私たちの選択が正しかったのか考えるとき、古都の夜のあの少年の後ろ姿が、今なお私に問い続けています。