こころねのうた 矢島早苗

ほんねで歌いたい

撫子の花

すぎし日はわすらむとする夕まぐれうすくれなゐにひびく鷺の音(ね)

 

如何にしてはじめのときぞ生まれけむ平塚にある撫子ヶ原は

 

年ごとに花ふやしゆく更級の日記に書かれしはら野のごとくに

 

しづやかに風にゆれゐるなでしこの花はさかりと君に告げたし

 

大伴家持来なむかこの庭に君はなにをか思ひたるらむ

 

家持がなでしこの花をいとほしみ蕊を見つむる朝のしづけさ

 

なでしこの花のかほりのただよへる夕べの庭を恋ほしみにゆく

 

望月の光おし照るなでしこのかほりをふかく吸ひてやすらぐ

 

雨にぬれし野良猫の目にうつりたる胸の底ひのやましさの色

 

茅の輪くぐり祓ひて生きむここだくの罪と穢れはなほくり返す

 

埋もれていた歌

 

秋の日の空のあをめる駅に立ち真幸くあれと君が髪撫づ

 

君と見しかの秋の日の大和道(やまとぢ)の彼岸の花の咲き初むるころ

出てゆきし子

父母(ちちはは)のおこなひを正しくしてをれば子はまねぶものと信ずるおろかさ

 

思川の底ひにしづむ細石(さざれし)に清らな水はしみてゆかざり

 

この庭にふりつむ白雪。踏み石は冷え冷えとして見えずなりゆく

 

ひさかたの天より雪の降る朝(あした)とぶ鳥のこゑは絶えて聞こえず

 

ひだまりは白く明るし熱(ほとほ)れる石はみ雪をとかしあらはる

 

石に染むは熱と覚ゆる人の心(うら)にあたたかくしみとほりゆくもの

 

家出せし子を警察へ知らせゆく夜(よ)の空しろし北斗七星

 

「帰らぬ」と出てゆきし子もいづくにか春の夜の空ながめやるらむ

 

思ひいづる折口信夫(おりくちしのぶ)がひと晩を外に過ごせし猫の話しを

 

アルバイトへ行く前に子は帰らぬと思ひ定めて出かけたるらし

 

あの夜の父の言葉を聞きゐりて家を出たると思ひ立ちたつ

 

出てゆきし子を探さむと夜半すぎに夫(つま)のこころはちぢに乱れぬ

 

警察へ知らせぬものかといふ夫をあてにはならぬとまた思ふとき

 

顔写真何かありやとフォルダーのなかなるむす子はほほ笑みてをり

 

忘れをりひと月まへに子とふたり一般参賀へゆきし正月

 

靖國の社に軍歌を奏でたる人のあることおしへられたり

 

オカリナにラバウル小唄を歌うこゑ肩くみゆれる人のあかるさ

 

日ごと子は軍歌を聞きたる八十年前の暮らしの音色はたたかひありき

 

子とふたりともしびの照る堀端に並びて写真を撮りし夜はも

 

警官にむす子の過去を話しゆくいくたび人に言ひしあやまち

 

チェロをやめて部活をやめてバイトするおのづから道を選び生きゆけ

 

飛び立てる備へのときと知りぬるか標(しる)し定めて計らひてゆけ

 

このくらいのことで家を出るなんて夫の言葉にわれは驚く

 

本気ではなきといひしが言の葉は言霊たるを知らず生きしか

 

遠ざかるむす子のこころうなだれて泣きたる夫は邪鬼のごとかも

 

持国天に踏みつけられてうずくまる邪鬼とわが身とどれほどたがはむ

 

うずくまり踏みつけられたる邪鬼の顔おろかなる身をすくふすべなさ

 

あさましくさもしきと思ふ現し身を責めゐて変はれるものにあらずや

 

おのづから心のまなこを見ひらきてみづからを灯す人ぞうつくし

 

四つの夜を外で過ごせし長男が帰りきたりぬなにか食はさむ

 

帰り来し子の語れるを琺瑯の薬罐のよごれをこすりつつ聞く

 

二晩は寝ずに過ごしぬ自転車をこぎて警察より隠れしと知る

 

父親と話しをしたくなしといふ四月のごときあたたかな昼

竹田の町

酷暑日の日に照らされて嘴(はし)をひらく暑しかるらむ黒き鴉は

 

鳥けもの虫は木陰に隠れゐてすさまじく暑き夏を生きむか

 

蛇口よりなまあたたかき水のいづる夜は源兵衛川の水を恋ほしむ

 

広瀬中佐を求めて

たたかはず日露が和する道なきか術を求める人を知りたり

 

石垣に夏草のびてさらさらとゆれゆる階(きざはし)のぼりゆかなむ

 

芙蓉の花うすくれなゐに咲き満つる広瀬神社にわれはきたりぬ

 

朝日照る社あかるし境内の草とりをする人の愛(かな)しさ

 

いづくにか広瀬中佐はおはします眼(まなこ)をとぢて耳すまし聞く

 

軍神とあがめられたる社にはただ蝉しぐれ響ききこゆる

 

資料館にて

「頑孫」と手紙の結びにたはぶれの文字も明るく笑まひて見ゆる

 

サモワールを使ひてお湯を沸かしたる中佐の姿を親しく思ほゆ

 

プーシキンの「夜」をからうたに書きかへて言を尽くして離(さ)かるかなしさ

 

わかれゆく日に見送りはせじといふしのび慕ふる乙女子あはれ

 

橇に乗りシベリア横断果たしたる健やかなりし広瀬中佐は

 

七生報国、一死心堅、再期成功、含笑上船

七度(ななたび)を生まれかはれど国の恩に報はむとするこころ知りたし

 

中国の大地と海でたたかひは広げられたり日露戦争

 

植民地支配を防ぎ日本を這ひ上がらせむと生きし人々

 

妻子ある兵曹長を故郷へ帰さむと君は探したりしか

 

たたかひのさなかにありて人を思ひ問ひて探せる心うつくし

 

あひ思ふ人を亡くせしアリアズナはうつつをいかにくらし生きけむ

 

兄勝比古は既に弟を二人弔う

たたかひにゆきて帰らぬ弟を春の盛りに送る悲しさ

 

見晴らしの良い境内に立つ

笛吹きて広瀬中佐を偲ばむと社に立ちて町を眺むる

 

山あいの竹田の町の群山に笛ふきならさむ旅のしづめに

 

竹田なるあをき群山に向き立ちて胸の底ひがあつくなりゆく

 

草とりの嫗

手土産をくれたる人の清らかな御心うれしわれをなぐさむ

 

草とりに汗する人と親しみて中佐の話しを聞ける楽しさ

 

白髪のびて年をふれども明るさのある声に聞く広瀬武夫を

 

亡き母のかげを重ねて見る御髪思ひはいづくへなびきなよめく

 

大連の外国人墓地もゆきたしと旅の続きを思ひ描きぬ

 

帰る日に

朝日さし湯けむりたちたつ山並みをおもしろく見ゆ君生(あ)れし町

 

秋の彼岸に

青山の霊園へゆく銀杏(ぎんなん)の実の落つ道を歩きゆかなむ

 

霊園の中佐の墓に風吹きて松のさ枝はほのかにゆらめく

 

ウェディングドレスを着たりて写真を撮る外苑の道の白き幸ひ

 

神宮に学徒出陣式ありぬ過ぎにしことはわすらるるかも

 

たたかひに勝たずば生きて帰らじと誓ふ心を勇ましといふ

 

今はなき万世橋の駅前の軍神広瀬と歌はれしころ

 

国敗れ古きかんがへ捨てたると中佐の像は倒されにけり

 

いまにして人は知らざりうつくしき廣瀬武夫の和するこころを

 

神宮のくらき木陰にしらじらと彼岸の花は咲きそめにけむ

 

神宮のなみ木のかげの曼珠沙華けふしらじらと咲きにけるかも

 

天気図に旅順港外見出してたたかひありし海とおぼゆる

 

山あひの竹田の町のひそやかさあくがれ恋ふる青き群山

はつ夏のうた

訪ねたる人はなけれど門の前に伸びたる草をつみとりてゆく

 

さみどりの楢のこずえに風ふきてゆるくなよめき日をすかし見ゆ

 

風たちて楢の葉末のゆらめきの愛(は)しき音色を人に告げたし

 

ゆるやかに楢のさ枝のたゆたへば来し方とほく思ほゆるかも

 

なでしこの茎の太きをつみとりて君にささげむなゆなこの花

 

イスラエルとイランの戦ひがはじまりて心が塞ぎ苛立ちもする

 

風と水が千年(ちとせ)へだてて育みし山を荒らして人は争ふ

 

次々にソーラーパネルを設けむと切り倒さるる木々の音を聞く

 

大鷹のこゑ響ききく巣立ち近き雛はいづこに宿りたるらむ

 

どんぐりの芽吹きをわが手でぬきてゆく雑木の庭は過ぎたりし夢

 

争ひがいまはと止みてテヘランに人が戻りてくると知りたり

 

安らひて眠れる夜になりぬると義母の言葉にウクライナ思ふ

 

争ひに壊されし街と争ひに荒れたる山河といづれ哀しき

 

幾山河壊してゆけば満ち足りて金と力と誉ぞ得られむ

 

七夕に寄す

年ごとにひとたび逢ふと定められ未だ許されざるはかなしき

 

そねみたる心は無しといふ人と手をふり別る七夕の夜に

 

桔梗の花

 

里山のこぶしの花は春雨にぬれつつぞ咲く人待ちかてに

春風にふかれてゆるる垂り花のやうなるむす子のたゆたふこころ

あたらしき道をえらむかまどふ子は櫟の花のゆれゆるるごと

つまづきの小さき石を拾ひあげなやみわづらひ歌わすれゆく

いなぶりて後のこころに浮かびくる桔梗の花の色をさびしむ

おとなひを子らと待ち待つうすぐもり春のゆふべに立たりしもころ

あはせゆくピアノの音色のあかるさに子の笑ひ声よく響くなり

ほのぼのと過ごせしうつつは夢の日となりてこころの奥にとどめむ

林なるさくらは花にあらはれず今年の春はすぎてゆくらし

としのはに木々の木の間に咲きにけるさくらの花はみまくほしきを

山桜おくれてやうやく咲きにけりこのうれしさを人に告げたし

かすみ立ちはるかの山はみえねども日光連山わが胸にあり

青麦のちひさき萌えは朝ごとにのびてゆくなりとどまりはせず

八咫の烏

丈高きビルは朝日に凛と照る東京は浄く整ふる街

 

新橋のビルのあはひにふくよかな森はありやと求むる心

 

遠くより目眩の波が寄するとき首をもたげて眠らむとする

 

ゆれゆるる電車のなかのまどろみは傀儡(くぐつ)のやうなるわが身と思ふ

 

青々と雲なき空に真白なるひだ美しき大船観音

 

父母と姉と兄から逃げたしと思ひたりしは十四のころか

 

母とするわれの話しの結び目は結ぶことなし口を閉ざしぬ

 

甘ったれで好きなことして生きてゐる非常識なる私(わたくし)らしき

 

育ちたる家は離れて朝の日と夕日の見ゆるこの家を愛(お)す

 

決断を人にゆだねる日はあれど朝日を見ればこころあらたむ

 

まれびとはいづこにおはすこたつ出してあたたむる日を思ふたのしさ

 

あたたかなあなたの声とほがからなあなたの声は庭のひだまり

 

クリスマスを飾りたてたる人あまた正月は飾ることなしと聞く

 

正月は飾らなくとも来るものと父の言葉を思ひ出しぬ

 

門柱に這ひたるかづらを切りゆきて正月の歌師の声にきく

 

胸底に師の声響く正月様どこまでござった神を迎えむ

 

松の葉に水仙の花千両を活けてわが家の依り代とする

 

掃除終えて門にかけたる輪飾りに西風はげし夜もすがら吹く

 

みそか一番鳥と鳴くこゑは八咫の烏か導きたまへ

 

執心

草抜けば土のにほひに目の覚めて昨日の悔ひを手放してゆく

 

夕まぐれ幻想曲をうらもなく口ずさむ人のこゑ心地よし

 

星祭り旧き暦の日のゆふべ人を羨しむ心を問ひ問ふ

 

才長けて光る清らな魂にしふねきわれか寄りて輪に入る

 

日の暮れに誰そ羨(とも)しむわが心縛らむとするものを断ちたし

 

執心(しふしん)は胸の底ひに赤く燃え嫉む言葉となりて突きくる

 

思ほえず突き刺されたる言の葉をいかにか人は越えて生きゆく

 

才走る人にあくがれ吹く笛のさもしき音色に開く邪鬼の目

 

土臭きわが現し身を浄めむと真水のシャワーを襟首に当つ

 

六条御息所はしふねけれ厭ひ思へどあくがれて見ゆ

 

流れゆく雲のかたちはとどまらず人の心はありてなきもの

 

ひたむきにひろくひとしくやはらかに吹き過ぎてゆく君はそよ風